BLACK SABBATH   ブラック・サバス

欧米ではブラック・サバスの人気は絶大だ。しかし日本では70年代から今一つ盛りあがらなかった。単純に考えてやはり来日公演を怠っていたからという理由もあるだろう。ディープ・パープルがあれだけ人気があるのも音楽性もあるのだろうが、来日公演に熱心でライブアルバムも発表しているのが大きいはずだ。レッド・ゼッペリンも70年代初頭には来日している。ブラック・サバスも1980年に HEAVEN AND HELL のツアーで来日し、人気に火がついた。しかいその人気の中心はロニー・ジェイムス・ディオだった。なにせ日本で圧倒的な人気を誇ったレインボウのメンバーだったからだ。この来日公演はFMで放送されたが、ロニーに対する声援の大きさと、ロニーの声の調子の悪さが印象に残っている。

サバスのオリジナル・ヴォーカリストはオジー・オズボーンだということは誰でも知っているだろう。1970年に Self titled album でデビュー以来、欧米では常にトップの地位にいたサバス。その人気に翳りが見えてきたのは NEVER SAY DIE あたりからだろう。この頃からオジーの奇行に拍車がかかり、バンドの活動は小規模になる。それを救ったのがロニーだった。サバスは HEAVEN AND HELL で人気を盛り返し、同時にオジーもアメリカでランディー・ローズという才能豊なギタリストに出会い見事に復活を果たす。しかし相変わらず日本ではオジーの知名度は低かった。最初のアルバム WIZARD OF OZZ は国内で発売されず、僕は輸入レコード店に行ってこのアルバムを見つけた。しかし欧米でオジーは完全復活を果たすのである。そして二枚目の DIARY OF A MADMAN をリリースするとブラック・サバスと人気を二分するようになる。僕は丁度その頃、アメリカに渡ったのだが当時アメリカでHMの人気は淋しいものだった。まだアイアン・メイデン、デフ・レパードなどがアメリカ進出を果たす前で、アルバムでチャートインしていたのはヴァン・ヘイレン、AC/DC、そしてクローカスくらいのものだった。なにせゼップ、キッス、エアロなどが殆ど活動をしていなかった時期だったのだ。しかしその状況は1983年になると一変する。

アメリカにHMの一大ブームが巻き起こる前年の1982年、ランディーは飛行機事故で帰らぬ人となる。それと前後してロニーもブラック・サバスを去り、ロック雑誌をにぎわしたロニー対オジー(仲が悪いとされていた)の言い争いも鳴りをひそめる事になる。その後ブラック・サバスは活動停止になるのだが、トニー・アイオミのソロとして発表されるはずだったアルバムが結局、ブラック・サバス・フィーチャーリング・トニー・アイオミという形で発表され、ブラック・サバスは活動を再開する。このアルバムではグレン・ヒューズが歌っていたわけだが、その後レイ・ギランという素晴らしいヴォーカリストを迎える。彼をフィーチャーしたサバスのライブ・テープを持っていて気に入っていたのだが、レイはサバスの音楽は趣味ではなかったらしく脱退(ちなみにレイはその後、ブルー・マーダーに参加、スーパーグループと噂されるもすぐに脱退。結局ジェイク・E・リーとバッドランドを結成するが、アメリカでは全く不評。バンドは売れないまま、レイはエイズで死去してしまう)。しかしメンバーの入れ替わりが激しかった時代は終わり、ドラマーにコージー・パウエル、そしてヴォーカルにトニー・マーティンを加えたラインアップで、ETERNAL IDOL, TYRなどの秀作を残している。その後は再結成やらなにやらで説明するのも面倒だけど、とにかくブラック・サバスというバンドは世界で最も人気のあるHMバンドなのだ。

もちろんメンバーの中で僕が尊敬しているのはロニーだ。歌における、そして歌詞における表現力には脱帽する。このあたりの事はROCK INSIDE OUT で書いているので読んでいただけたらと思う。しかしバンドを60年代から支えてきたトニー・アイオミの存在は誰よりも大きいのだ。十代の頃、指先を怪我して失ってしまったトニーは指にキャップをはめてプレイする。その独特のサウンド、そしてリフ。世界において彼の評価は非常に高い。そしてベースのギーザー・バトラーはHM界最高のベーシストだ。ロニー時代の二枚目、MOB RULES では異常なまでにベースの音が大きく、このあたりはロニーは不満だったようだ。まあそれよりステージ上、マイクスタンドの前に箱を置いて背の低いロニーをからかって喜んでいた性格も問題だったのだろうが。ロニーはリッチー・ブラックモアには恨みはないが、サバスのメンバーはひどい奴らだったと発言していた。しかしそんなところは水に流して再結成をしたところはさすがロニーと言えるだろう。

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