2011年3月11日という一つの原点
PART 2

高校に入学して間もなく、電車の中で同級生を紹介された。私の学校は東京都墨田区にあり、埼玉県草加市に住む私は電車で通学していた。クラスにも4〜5人は埼玉から通っているクラスメートがいて、帰宅する電車の中ではよく一緒だった。私の利用駅は松原団地駅で、その駅を利用しているのは私と、もう一人だけだった。クラスは違うけど更にもう一人、同じ駅から通っている同級生を紹介された。Y君だった。

その高校は私立学園校で私は付属中学から進学した。クラスは7つあり、校舎の階も離れていた。彼のクラスは4階にあり、私は1階だったからあまり顔を合わせる事がなかった。彼は高校から入ってきたが、私は中学から進学したので、高校入学当時すでに仲の良い同級生がたくさんいた。

噂によると彼、Y君はとんでもなくピアノがうまいらしい。もの凄い才能だ、音楽の先生でさえ、たまげるほどだと聞いた。私も中学の頃からバンドを始め、当時はエレクトーン教室に通い、キーボードを弾いていたので彼に大きな興味を持った。ある朝、学校に向かう途中に彼を見つけ、声をかけた。彼はクラシックが大好きだと言う。

家はどの辺りなの?と聞くと駅前だと言う。すぐ近くだ。ピアノがうまいんだってね、今度、教えてくれないか、という会話を交わした。彼の家に行ってクラシックを聴いたり、ピアノを弾いたりしよう、と約束した。

しかし携帯もメールもない当時、同じ学校と言えどもなかなか、そのチャンスがなかった。ある日、電車の中で彼の姿を見つけた。彼は座席に座って目を閉じ、かばんを鍵盤に例えてピアノを弾く動きをしていた。ちょっと離れた所で、それを見て、こいつはすごいピアニストなんだろうな、と思った。声さえ掛けられなかった。

ある日、私は校舎の階段を駆け上がっていた。何の用事があったか記憶にないが、ちょっと急いでいた。そこに彼、Y君がいた。数人の学生に囲まれてうずくまっていた。あれ?Y君だ、と思ったが、ちょっと立ち止まり、そのまま通過した。何人かに囲まれて虐められているように見えたが、特に気に留めなかった。


やがて夏休みがやってきた。彼の事を思い出しはしても、電話番号も知らない。2学期になったらY君の家に行こう、と思っていた。9月になり、2学期が始まった。その朝、校長の挨拶が校内放送で流れた。Y君が急死した、と言う。驚いた。そんなバカな・・。まさに信じられなかった。その午後、葬式があるという。私は教員室に行き、葬式に出席したいと申し入れた。しかしクラスが違うから、という理由で却下された。

数日後、埼玉から通う同級生が告白した。その彼は中学からの進学組で以前から友達だった。彼はY君とクラスが一緒で葬式に参加できた。彼が言った。Y君はね、首をつって自殺したんだよ、と。それは言葉にならないほどのショックだった。そして自殺したのに何で学校はそれを隠すんだと怒りが込み上げてきた。

以来、学校が嫌になった。大人が、日本が、全てが嫌いになった。あの学校で一番、近くに住んでいたのは自分だ。音楽、ピアノという共通点があり、これから仲良くしようと思っていた。それが死んでしまうなんて・・・。あの時、彼は虐められていたんだ。だけど自分は見て見ぬ振りをしてしまった。なぜあの時、声をかけて彼を助けなかったのだろう・・。今度、遊びに行くよ、と約束した時、何故その日に遊びに行かなかったんだろう。

自分を責めずにはいられなかった。何日も悲しみ、眠れなかった。そして笑う事もできなくなってしまった。親兄弟はそんな私を根暗と呼び、からかった。家族にも興味を失った私は全てを忘れ、アメリカに行こうと決心した。

だけど夏が来るたび、Y君を思い出し、眠れぬ夜を過ごした。同じ質問を繰り返した。何で虐められているのを見て見ぬ振りをしたんだ、と。深い深い後悔だった。だから、できないのである。知らない人が喧嘩をしていてもすぐに仲裁に入ってしまう。困った人がいると手を差し伸べてしまう。金を貸してと言われたら貸してしまう。だから人には騙され続けた。そして今も利用され続けているようなものかと思っても、手を差し伸べてしまう。

子供の頃の友達は一切いない。だが数年前に18歳の頃、一緒にバンドをやっていた男と偶然、再会した。その時は嬉しかった。私にとって唯一の昔からの友達だ。彼は私のその頃の写真を持っていた。全てを失った私にとって、貴重な写真だ。一緒に飲み、20数年振りの交友を温めた。ある日、彼が金を貸してくれと言う。家賃が払えなくて追い出されると言って泣きついてきた。数か月分の家賃を彼に渡した。

そし彼はその金を返してくれる事もなく、消えていった。電話をかけてもメールをしても返事はない。唯一の十代からの友達でさえ、裏切ってゆく。

冤罪で投獄されたアフリカ人を一人で支援し、数十万円の保証金を払い彼を釈放させた。何度も前橋刑務所や入管に行き、彼を励ました。彼は私を命の恩人と呼び、涙を流した。しかし出所すると恩返しをしようと言う気持ちさえない。もう連絡も来ない。病気で倒れたスペイン人を病院に運び、療養の為に旅行に連れて行ってあげた。ツアーに来たオーストラリア人の世話をして家に泊めてあげて、彼らのライブの手伝いをした。しかし皆、感謝するでもなく、恩を仇で返して去ってゆく。

わかっている。人はいくら親切にされても、感謝すると口で言っても、自分の事しか考えていない。それでも私は続ける。その原点はあの16歳の夏の日の悲しみだ。あれから30年以上の歳月が流れた。だけどあんな苦しい思いと後悔はしたくない。だから見て見ぬ振りはできない・・。

2011年3月11日の大地震と津波。あれから1年以上が過ぎた。何度も被災地に行った。多くの人の苦しみがわかるとは言わない。だけど友人を亡くした悲しみだけはわかる。

(パート3へ続く)
PART 3